【#13】会社の評価が消えたら、自分は何者だろうか?
― 老子・第13章
社会に出て30年近く、働いてきました。
仕事をして、給料をもらう。
任された仕事をこなし、会社から必要とされる。
それが当たり前でした。
毎日同じように出勤し、同じように仕事をこなす。
それの、何がいけないのか。
そう思っていました。
「よくやっている」
「任せておけば大丈夫」
そう言われれば、やっぱり嬉しいものです。
自分には、まだ価値がある。
そう思えるからです。
誰かに必要とされることは、それだけで励みになります。
でも50代になった今、少し違うことを考えるようになりました。
もし、この仕事ができなくなったら、自分には何が残るんだろう。
第一章 体が、限界を超えた日
2024年の春、坐骨神経痛で1か月のドクターストップになりました。
腰から足にかけて痛みが走り、普段なら数歩で行けるトイレまでたどり着けません。
痛む足を引きずり、壁伝いにやっと便座に座って、天井を見上げました。
深夜の静かな小部屋には、自分の呼吸だけが聞こえていました。
「体力の限界」
その言葉が、足の激痛といっしょに頭の中を渦巻いていたのを覚えています。
30年近く、休まず働いてきたつもりでした。
そのつもりが、あっけなく崩れた瞬間でした。
情けなさと悔しさが、痛みと一緒にこみ上げてきました。
そこへ追いかけてきたのが、休めば給料が出ないという現実です。
「仕事ができない自分って、何なんだろう」
便座に座ったまま、何度も繰り返し考えました。
働いていること。
会社から必要とされていること。
給料をもらっていること。
私はそれらを、どこかで「自分の価値」と重ねていたのだと思います。
第二章 2500年前からの答え
そんなとき、老子の第13章が目に入りました。
寵辱驚くが若し(寵辱若驚) 大患を貴ぶこと身の若し(貴大患若身)
褒められても、けなされても、心は大きく揺れる。
そして、その揺れを自分の身のように大切に抱えてしまう。
私はそんなふうに受け取りました。
読んだ瞬間、まるで今の自分に向けて書かれた言葉のように感じました。
老子は続けて、三つのことを語っています。
一つ目は、「寵為下」。
評価される(寵を受ける)というのは、実は評価する側の「下」に立つことなのではないか。
私はそう読んでいます。
認められて嬉しいとき、私たちは気づかないうちに、認める側に自分の物差しを預けているのかもしれません。
上司の一言で機嫌が良くなったり、周りの視線で不安になったり。
評価は、目に見えないぶん、じわじわと心に染み込んできます。
振り返れば、心当たりのある方も多いはずです。
二つ目は、「得之若驚、失之若驚」。
評価を得ても驚き、失っても驚く。
上がっても下がっても、心が落ち着かないということです。
評価された日は浮かれて、されなかった日は眠れない。
思い当たる方も多いのではないでしょうか。
評価という、他人の物差しに、自分の心を明け渡している状態です。
三つ目は、「吾有身」。
私に大きな患いがあるのは、私に「身」があるからだ、という言葉です。
身体があるから、痛みがあり、衰えがあり、限界があります。
老子は、その限界を隠すのではなく、まっすぐ見つめよ、と言っているように思います。
いつか限界が来ることは、どこかで想像していました。
でも、まさかこのような形で現れるとは、思ってもいませんでした。
以前にも、ぎっくり腰や過労で、身体を壊したことがあったからです。
振り返れば、そのたびにサインは出ていたのだと思います。
決断を下す前に、身体が訴えていたものを、私はずっと無視し続けていました。
「体が資本」という言葉は、よく耳にします。
でも、その資本である身体が使えなくなったときのことを、私は全く考えていませんでした。
いや、考えていなかったことに、あの激痛が気付かせてくれたのです。
では、どうやって収入源をつくるのか。
これが、私にとっての「問い」になりました。
寵為下。
得之若驚、失之若驚。
吾有身。
老子は、評価に振り回される私たちの姿を、すでに見抜いていたのかもしれません。
2500年前も、今も、人の心はそう変わっていないのかもしれません。
第三章 評価は、否定しない
誤解のないように書いておきます。
会社の評価なんてどうでもいい、と言いたいわけではありません。
30年近く積み上げてきた経験も、現場で身につけた技術も、人からの信頼も、全部、自分がつくってきたものです。
評価されるのは嬉しいし、必要とされるのも嬉しい。
その気持ちに、嘘はありません。
それでいいと思っています。
気になるのは、その先です。
評価されている自分が、そのまま自分の価値になってしまったら。
自分の人生なのに、自分の価値を他人に預けてしまうことになります。
では、会社の外に、自分の居場所をつくることはできないだろうか。
あの日生まれた「どうやって収入源をつくるのか」という問いは、そのまま消えずに残りました。
会社の評価だけに頼っていては、いつかまた同じ壁にぶつかるかもしれません。
会社には定年があります。
役職にも期限があります。
体力にも限りがあります。
同じように感じている50代は、私だけではないはずです。
肩書がなくなり、給料がなくなり、評価がなくなったとき、自分には何が残るのでしょうか。
そう感じたところから、会社の中で積み上げてきた経験を、会社の中だけに置いておく必要はないのかもしれない、と考えるようになりました。
だから今、文章を書いています。
最初は、誰にも読まれなくてもいい。
そう思って書き始めました。
現場で働いてきたこと。
50代になって感じたこと。
身体が動かなかった1か月のこと。
古典を読みながら考えたこと。
それを読んで「なるほど」と思ってくれる人がいる。
「自分も同じでした」と言ってくれる人がいる。
会社からもらう評価とは、少し違う手ざわりがあります。
自分の経験そのものが、誰かが考えるきっかけになる。
そんな場所が会社の外にもあるのだと、少しずつ分かってきました。
小さな一歩かもしれません。
それでも、確かな実感がありました。
第四章 「いいね」も、同じ罠
ただ、ここで気をつけたいことがあります。
会社の評価から離れたつもりで、今度はSNSの「いいね」を数えるようになったら、それは評価の置き場所が変わっただけです。
フォロワー数。
アクセス数。
「スキ」の数。
気づけば、一日に何度もスマートフォンを開いて、数字を確認している自分がいました。
会社の評価から自由になったつもりで、また新しい評価に縛られていたのです。
増えれば嬉しく、減れば不安になる。
まさに「得之若驚、失之若驚」です。
老子が言っているのは、「評価されるな」という話ではないのだと思います。
手放せ、と言っているのでなく、依存するな、と言っているのだと思います。
評価されることと、自分の価値を、同じものにしない。
私はそう読んでいます。
正直に書きます。
私はまだ、この問いの答えを持っていません。
書いていて反応があれば嬉しいですし、反応がなければ、やはり少し落ち込む。
老子の言う「驚」から、まだ自由にはなれていません。
それでも、ひとつだけ思っていることがあります。
第13章の終わりに、老子はこう言います。
身を以て天下を貴ぶ者は、天下を寄す可し。 (貴以身為天下者、若可寄天下)
自分の身を、天下と同じ重さで大切にできる人になら、天下を任せられる、という意味です。
私はここを、「自分を大切にすることと、世の中に何かを差し出すことは、つながっている」と読みました。
自分を粗末にしたまま、人に何かを差し出そうとしても、長くは続きません。
評価のために自分を差し出すのではなく、自分を大切に扱ったうえで、経験を静かに差し出していく。
そういう順番なら、評価に振り回されずに続けられるのかもしれません。
急がず、まず自分を大切にすることから始めればいい。
そう思うと、少し肩の力が抜けました。
第五章 あなたの価値は、どこにありますか?
少し、立ち止まって考えてみてください。
会社の肩書でしょうか。
収入でしょうか。
過去の実績でしょうか。
誰かからの信頼でしょうか。
それとも、SNSの反応でしょうか。
もし、それらが全部なくなったとしたら。
それでも、「これは自分が積み上げてきたものだ」と言えるものは、何でしょうか。
簡単には、言葉にならないかもしれません。
それでも、考える価値はあると思っています。
少なくとも、私はそう考えるようになりました。
私はまだ、その答えを探しています。
会社の外に、自分の価値を置く場所をつくれるのか。
そして、それを誰かから評価されるためではなく、自分自身が「これは残しておきたい」と思えるものにできるのか。
50代になった今、そんなことを考えています。
焦らず、少しずつ、探していくつもりです。
あなたは今、何を「自分の価値」にしていますか。
