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【#10】生んでも、握らない|老子・玄徳げんとくに学ぶ育て方

哲学人生

【#10】生んでも、握らない|老子・玄徳げんとくに学ぶ育て方

序章|老子 第十章(本文)

生之畜之せいしちくし。生而不有せいじふゆう、爲而不恃いじふじ、長而不宰ちょうじふさい。是謂玄德ぜいうげんとく。

読み下すと、こうなります。

「之これを生しょうじ之これを畜やしなう。生しょうじて有ゆうせず、為なして恃たのまず、長ちょうじて宰さいせず。是これを玄徳げんとくと謂いう。」

現代語にすると、こういう意味になります。

生み出しても、自分のものにしない。

やってあげても、恩に着せない。

育て上げても、支配しない。

老子は、これを「玄徳げんとく」——深く、目立たない徳と呼びました。

この章を軸に、子育てや部下育成について考えてみたいと思います。孔子や孫子の言葉も少し借りますが、あくまで老子の「生而不有せいじふゆう・為而不恃いじふじ・長而不宰ちょうじふさい」という三つの姿勢が、この記事の骨組みです。

第一章|生而不有せいじふゆう 生んでも、握らない

教育は「自立」のための基礎工事

子どもを育てるとき、多くの親御さんは「良い子に育てたい」と考えるのではないでしょうか。

では、良い子とはどんな子でしょう。

親の言うことをよく聞く子でしょうか。

危ないことをせず、勉強をして、周囲に迷惑をかけず、大人の期待に応えてくれる子でしょうか。

私は、少し違うのではないかと感じています。

子どもの幸せとは、迷わず生きられる力を持つことなのではないかと思うのです。

その力を、私は「自立」と考えています。

だとすれば、親の役割は、子どもの人生を決めることではなく、あくまで自立していくための基礎工事をすることなのだと思います。

家を建てるとき、基礎工事はとても重要です。

ですが、基礎工事をした人が、その家に一生住むわけではありません。

子育ても、それと少し似ているのかもしれません。

これはまさに、老子の言う「生而不有せいじふゆう」——生み出しても、自分のものにしない、という姿勢そのものだと思います。

罰で従わせるのは教育ではない

子どもが危険なことをすると、

親が、

「危ないでしょ!」

「言うことを聞きなさい!」

と声を荒げる。

「言うことを聞かなければYouTubeは見せないからね」

「言うことを聞かないなら、おやつは無し」

こうした罰をちらつかせる言葉も、根っこは同じなのではないかと思います。

これは、子どもを従わせているだけであって、教育とは少し違うのではないでしょうか。

力任せに従わせようとしているに過ぎない、とも言えそうです。

もちろん、事故や怪我につながるような行動なら、まず止める必要があります。

しっかり止めることも、時には大切です。

ただ、その後がさらに大切なのだと思います。

「なぜ止められたのか」

「何が危なかったのか」

「次はどうすればいいのか」

そこまで伝えて、ようやく経験が教育に変わっていくのではないでしょうか。

失敗には、必ず原因があります。

だとしたら、

「あなたがダメだから失敗した」

ではなく、

「こういう原因があったから、こういう結果になったんだよ」

と伝えてあげたいものです。

結果には、原因がある。

このことを、小さな頃から繰り返し経験させてあげたいと思っています。

この「繰り返し経験させる」ということを、面倒に感じてしまうこともあるかもしれません。

けれど、反復練習という言葉がある通り、人は何度も何度も繰り返すことで、ようやく覚えていくものなのだと思います。

スポーツ選手でも、ミュージシャンでも同じで、繰り返しの練習があるからこそ、実を結ぶのだと思います。

それが、自分で考える力につながっていくのではないでしょうか。

「握らない」というのは、放任することではありません。

止めるべきときは止め、伝えるべきことは伝えながらも、最後にその子を「自分のもの」にしないこと。

そこが、生而不有せいじふゆうの難しさなのだと思います。

第二章|為而不恃いじふじ、 やってあげても、恩に着せない

子どもの失敗は観察材料

幼児は、同じことを何度もします。

一度言ったからといって、すぐにできるようになるわけではありません。

だからといって、

「この前も言ったでしょ!」

と怒ってしまっても、あまり意味がないのかもしれません。

私は、むしろそこを観察するようにしています。

一度目と二度目では、何が変わったのか。

二度目と三度目では、何が変わったのか。

失敗そのものを見るというより、失敗の変化を見るようにしています。

これがとても大切なことなのではないかと感じています。

例えば、一度目に水をこぼしたとします。

「こうするとこぼれるよ」

と教えます。

二度目。

またこぼしてしまいました。

でも、前回とは少し違います。

こぼした量が、少し減っています。

だとすれば、その子は何かを学んでいるのだと思います。

三度目には、さらにこぼさなくなりました。

そこには、確かな成長があります。

大人から見ると、

「また失敗した」

と映るかもしれません。

でも、子どもの中では、

「前回より少しできるようになった」

という変化が起きているのかもしれません。

だから私は、

1回目と2回目の差分を見る。

そして、

2回目と3回目の差分を見る。

その差分から、その子の成長度合いや特性を、大人が学んでいく。

ここが、教育においてとても大切なことなのではないかと思っています。

教育とは、子どもだけが学ぶものではなく、

教える側も、子どもから学ばせてもらっているのだと思います。

観察と分析は違う

ここは、少し誤解されやすいところかもしれません。

子どもを「評価する」わけではありません。

「この子はこういう性格だから」と決めつけるのでもありません。

昨日と今日で何が変わったのか。

何に興味を持ったのか。

何を理解して、何がまだ理解できていないのか。

どんな言葉に反応するのか。

どんなときに自分から動くのか。

そういう変化を、そっと見ています。

そして、教える側が次の関わり方を考えていきます。

つまり、

子どもを育てながら、大人も教育の方法を学ばせてもらっている。

これが、本当の意味での「教育」なのではないかと思うのです。

見返りを求めずに関わり続ける。それが、老子の言う「為而不恃いじふじ」——やってあげても、恩に着せないという姿勢に近いのだと思います。

「なぜ?」を面倒くさがらない

幼児期の子どもは、とにかく「なぜ?」と聞いてきます。

親にとっては、正直なところ大変です。

同じ質問を何度もされます。

話が横道にそれます。

一つ答えると、また次の質問がやってきます。

疲れてしまうこともあります。

それでも、私はきちんと話すようにしています。

子どもだからと簡単に答えるのではなく、子どもなりに理解できるように話すようにしています。

すると、そこからまた会話が生まれます。

話の路線がズレても、それはそれでいいのだと思います。

むしろ、ズレたところにこそ、その子が何を考えているのかが表れることがあります。

だから、喋るだけ喋らせています。

その方針のせいか、四六時中喋っています。

まあ、これはこれで大変なのですが(笑)。

でも、その「喋りたい」という好奇心こそ、大切にしたいものだと感じています。

好奇心が教育の出発点

子どもに身につけてほしいものは、たくさんあります。

知識も大切です。

礼儀も大切です。

忍耐力も大切です。

自信も大切です。

人への思いやりも大切です。

ただ、私はその入口に「好奇心」があるのではないかと考えています。

知りたい。

やってみたい。

なぜ?

どうして?

どうなる?

その好奇心があるから、知識が増えていきます。

知識が増えるから、考えるようになります。

考えるから、失敗します。

失敗するから、工夫します。

工夫するから、少しずつできるようになります。

できるようになるから、自信につながります。

そして、人との関わりの中で、礼儀や思いやりも学んでいくのだと思います。

だから私は、特に幼児期、なかでも5歳くらいまでの好奇心を大切にしたいと考えています。

学校で教えてほしかったこと

一方で、学校教育には、少し違った角度からの思いもあります。

私自身、大人になって振り返ると、学校で学んだことで今の人生に直接役立っているものは、正直あまり思い浮かびません。

それよりも、

社会に出てから必要になるビジネス的な考え方を、もっと早く教えてほしかった

というのが、正直な気持ちです。

経済の仕組み。

お金がどう動くのか。

商売は、なぜ利益が必要なのか。

人と交渉するとき、何を考えるのか。

仕事とは何なのか。

社会の中で、自分はどう価値をつくっていくのか。

こうしたことは、大人になってから初めて向き合うことになります。

そして、知らなかった人ほど、苦労するように思います。

私自身が、まさにそうでした。

このあたりは、どちらかと言えば孫子的な「現実をどう生き抜くか」というテーマに近いかもしれません。育てる側は、玄徳げんとくだけでなく、こうした現実的な知恵も渡してあげたいところです。

「勉強ができる」と「賢く生きる」の違い

勉強ができる人は、確かに強みがあります。

問題の解き方を理解しています。

コツをつかむのも早いです。

選択や判断も速いです。

ただ、それだけでは現実の問題に対応しきれないこともあります。

現場には、教科書に載っていない問題が次々に起こるからです。

そこでは、経験がものをいいます。

だから、

勉強ができることと、賢く生きられることは、少し違うのだと思います。

賢く生きるというのは、要領の良さでもあります。

相手を見る。

状況を見る。

タイミングを見る。

自分の力を知る。

無理なものは無理だと判断する。

そして、自分が力を発揮できる場所を選ぶ。

これは、学校のテストだけではなかなか身につきにくいことかもしれません。

だからこそ、教育には「現実を生きるための知恵」も必要なのではないかと思います。

大人になって知った「親切」の技術

私自身、人から教えてもらったことで、今でも心に残っているものがあります。

それは、

常識とは、相手にとって親切であることなのではないか

という考え方です。

妻や会社の先輩の立ち振る舞いを見て、教えてもらいました。

自分がほんの一手間を加える。

すると、相手がスムーズに動けるようになります。

その一手間は、自分にとっては小さなことかもしれません。

でも、その小さな親切が相手を助けます。

そして、それが回り回って、自分に返ってくるのだと思います。

これは、社会で生きるうえで、とても大きな知恵だと感じています。

こういうことも、本来は教育の一部なのではないでしょうか。

人はつまずいたときにしか学ばない

では、大人になった人をどう教えればいいのでしょうか。

ここは、子どもとは少し違うように思います。

人は、つまずいたときにしか、本気で学ぼうとしないものです。

そして、つまずいたときにしか、学べないこともあります。

だから私は、誰かがつまずいたときに、

適切なアドバイスをサッと差し出せるかどうか。

そこに、大人としての判断力が表れるのではないかと思っています。

何でも先回りして教えるのではありません。

失敗する前に、全部取り上げてしまうのでもありません。

本人がつまずいた。

そこで初めて、

「こういう方法もあるよ」

と差し出す。

それが、

教え導く

ということなのではないかと思います。

差し出したアドバイスに対して、見返りや感謝を求めない。ここにも、為而不恃いじふじの姿勢が表れているように思います。

第三章|長而不宰ちょうじふさい、 育て上げても、支配しない

「教え、信じ、待つ」の順番

人を育てるとき、私は、

教える。

信じる。

待つ。

この順番を大切にしています。

これは、孔子の教えにも通じる考え方だと思っています。

最初から放っておくわけではありません。

必要なことは、きちんと教えます。

危険なことは止めます。

間違いも伝えます。

でも、その後は信じます。

そして待ちます。

自分とは違うやり方をしていたとしても、

「そんなやり方もあるのか」

と、そのまま観察してみます。

自分の経験だけを正解にしてしまうと、見落とすものがあるように思うのです。

自分より後から生きている人には、自分には見えていないものが見えていることも、きっとあるのだと思います。

親という字は、木の上に立って見ている、と書きます。

そばに寄り添って、手を出し続けることだけが愛情ではないのかもしれません。

少し距離を置いて、木の上から見守ってみる。

その距離があるからこそ、見えてくるものもあるのだと思います。

この「教え、信じ、待つ」という順番を考えるとき、私はいつも山本五十六の言葉を思い出します。

「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、ほめてやらねば、人は動かじ」

まず自分がやってみせる。

次に、言葉できちんと言って聞かせる。

そして、実際にさせてみる。

最後に、ほめる。

この四つが順番通りに揃って、初めて人は動くのだと思います。

多くの場合、私たちは「言って聞かせる」ところだけで済ませてしまいがちです。

口で説明しただけで、「言ったのに、なぜできないんだ」と感じてしまう。

でも、それでは足りないのだと思います。

やってみせる。

させてみる。

ほめる。

このどれかが欠けると、人はなかなか動いてくれません。

そして、この言葉の続きには、こうもあります。

「話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず」

任せて、初めて人は育つ。

これは、老子の「長而不宰」——育て上げても、支配しない、という姿勢と、驚くほど近いところにあるように思います。

やってみせ、言って聞かせ、させてみて、ほめる。

そこまでは、丁寧に関わります。

でも、その先で「任せる」という一歩を踏み出せるかどうか。

そこに、育てる側の覚悟が問われるのだと思います。

部下が自分を超えたら祝えるか

自分が育てた人が、自分より優秀になった。

私は、それを素直に嬉しく感じます。

子どもでも、部下でも同じです。

自分とは違う人生を選んだ。

それで成功した。

だったら、祝ってあげたいと思います。

育てるということは、所有することではないからです。

これは、まさに老子の「長而不宰ちょうじふさい」——育て上げても、支配しない、という姿勢そのものだと思います。

人を育てるとは、その人を自分の思い通りにすることではなく、

自分がいなくても、その人が自分の足で歩ける状態をつくることなのだと思います。

そこまでできると、育てる側も少し楽になります。

育てられた側も、楽になります。

お互いが楽になる。

それが、本当の意味での自立なのではないかと思うのです。

教育の目的は服従ではない

子どもに、

「言うことを聞きなさい!」

と声を荒げるのは、簡単なことです。

でも、それだけでは「言うことを聞く方法」しか伝わらないのかもしれません。

本当に伝えたいのは、

なぜそうするのか。

どう考えればいいのか。

失敗したら、次はどうすればいいのか。

ということなのだと思います。

そして、いつか親がいなくても、自分で判断できるようになってほしい。

親の代わりに先生がいます。

先生の代わりに先輩がいます。

先輩の代わりに上司がいます。

やがて、自分自身が人を教える側になっていきます。

そのとき、今度は自分が「教え、信じ、待つ」側になるのだと思います。

教育は、そこで終わりません。

世代から世代へ、渡っていくものなのだと思います。

教育は一生続くもの

幼児期には、

好奇心を守る。

青年期には、

自分で考える力を育てる。

社会人になったら、

現実の中で判断する力を身につける。

人を率いる立場になったら、

人を支配せずに育てる。

そして50代、60代になったら、

自分が経験してきた知恵を、次の世代へ渡していく。

最後には、

手放す。

これが、私の考える教育の流れです。

教育とは、最後に手放すこと

その人が、

自分で考え、

自分で選び、

自分で失敗し、

自分で立ち上がり、

自分の足で歩いていけるようになること。

親は、そのための基礎工事をします。

教師は、そのための道具を渡します。

先輩は、経験を伝えます。

上司は、成長できる環境をつくります。

そして、育てた人が自分を追い越していったら、喜んで送り出したいものです。

それが「教える」ということなのではないでしょうか。

育てるとは、最後には手放すことなのだと思います。

生んでも、握らない。

やってあげても、恩に着せない。

育て上げても、支配しない。

——是謂玄徳ぜいうげんとく。

これを、あなた自身の子育てや部下育成に、静かに問い直してみてほしいと思います。

今日の問い

あなたは、子どもや部下に、

「自分の言うことを聞いてほしい」

と思っているでしょうか。

それとも、

「自分がいなくても、自分で判断できる人になってほしい」

と思っているでしょうか。

この二つは、似ているようで、少し違うもののように思います。

そして、その違いにこそ、

玄徳げんとくの本質があるのかもしれません。

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