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【#09】全部知らなくても、生きていける|老子・第9章に学ぶ、50代からの情報との距離の取り方

哲学人生

【#09】全部知らなくても、生きていける|老子・第9章に学ぶ、50代からの情報との距離の取り方

第一章|今日の違和感

両手以上のものは、持てない

私がまだ小学生のころ、法事で親戚が集まり、手を合わせていました。

線香の匂いと、畳の少しひんやりした感触を、今でも覚えています。

お坊さんのお経が終わり、説法が始まります。

その中で、こんな話がありました。

「人間は、両手以上のものを持つことはできない」

小学生ながらに、なるほどと感心したことを覚えています。

なぜか、その言葉だけが、何十年たった今でも心の奥底に残っています。

それだけ、刺さった言葉だったのだと思います。

両手を広げてみてください。

確かに、両手で持てるものには限界があります。

さらに、両手を水平に広げたまま、自分を中心にぐるりと回ってみます。

すると、自分の周りに一つの円ができます。

その円の内側が、自分のテリトリーであり、自分が手を伸ばして届く範囲だそうです。

この話を、今また思い出しています。

もしかすると、情報も同じなのではないでしょうか。

今は、情報があふれています。

テレビをつければニュースが流れています。

スマホを開けば、SNS、YouTube、ニュースサイト、ブログ、メルマガ、ポッドキャスト。

AIに聞けば、分からないことまで教えてくれます。

世界中で起きていることが、ほとんどリアルタイムで手元に届きます。

朝起きてスマホを開いた瞬間から、すでに何十件もの通知が並んでいる。

そんな日も、珍しくありません。

昔なら、新聞を開くのは朝の数分だけでした。

今は、一日中、画面が光り続けています。

そう考えると、本当に便利になりました。

でも、ふと思うのです。

これ、全部必要なのだろうか。

第二章|老子はこう言う

「持而盈之、不如其已」(じしてこれをみたすは、それやむにしかず)

老子の第9章に、こんな言葉があります。

「持而盈之、不如其已」(じしてこれをみたすは、それやむにしかず)

満たしたものを、さらに満たし続けるより、そこでやめておくほうがいい、という意味だそうです。

続けて、こんな言葉もあります。

金や玉が部屋いっぱいにあっても、それを守り切ることはできない。

富や地位を得て驕り高ぶれば、自ら災いを招く。

だから、事を成したら身を退くのが天の道である、と。

器いっぱいに水を注ぎ続ければ、こぼれます。

刃物を鋭くし続ければ、長くは保ちません。

だから、**「十分なところで止める」**ことが大切だと、老子は言っているようです。

これを、情報に置き換えてみます。

私たちは、「もっと知らなければ」と思いがちです。

でも、本当にそうでしょうか。

情報が足りないから不安なのではなく、情報を入れすぎているから、自分で考えられなくなっていることもあるのではないでしょうか。

満たすことばかりに気を取られて、止めるという選択肢を、最初から持っていないのかもしれません。

多く知っている人が、優れているように見える時代です。

でも、多く知っていることと、正しく判断できることは、必ずしも同じではないのだと思います。

身近な例で考えてみます。

食事をしていて、「おいしいな」と感じることがありますよね。

お代わりしたいな、もっと食べたいな、と思うことがあるでしょう。

そこで思い出すのが、「腹八分目に医者いらず」という言葉です。

欲しいな、と思うところで、あえてやめておく。

この心が、大切なのだと思います。

こんな光景も、身の回りにあります。

食事が遅い子供を見て、大人が「早く食べなさい」と叱ります。

子供はそれを真に受けて、口いっぱいに頬張ります。

ところが、噛み砕いて飲み込むことができず、戻してしまう。

そこで、また怒られる。

大人にとっては、叱ったことがストレスになり、子供にとっては、言われた通りにしたのに失敗して怒られた、というジレンマが残ります。

身の回りには、こういうわかりやすい例がたくさんあるのに、見落としてしまいがちです。

老子が説く「持而盈之、不如其已」(じしてこれをみたすは、それやむにしかず)も、実は、こうした日常の中にすでに答えがあるのかもしれません。

第三章|私の体験

ニュースを断ち切って、見えてきたこと

私は、テレビをほとんど見ません。

というより、情報源としてテレビを手放しました。

理由は、単純です。

ニュースを見ると、自分がネガティブになると気づいたからです。

事件や事故を中心にした情報が多いのは、注意喚起という意味があるからなのだと思います。

それは分かっています。

でも、私は、そのすべてを自分が抱える必要はないと思いました。

知らなくてもいいことに、自分の時間を割いている余裕は、正直ありません。

だったら、自分が得をする情報だけを、自分で選んで見ればいい。

そう考えるようになりました。

今、私が意識して見ているのは、自分の仕事や発信に直結する情報だけです。

物流業界の動き、原油や為替の変動、そして自分が書こうとしているテーマに関わる話題。

それ以外の、芸能ニュースや政治の細かいやり取りは、ほとんど追いません。

確かに、情報は偏ります。

でも、それでいいと思っています。

妻は、私が世間一般のニュースを知っている前提で話しかけてきます。

「あの事件、ひどいよね」

そう言われても、私は、事の成り行きを知らないので何のことか分からないのです。

その知らないことに対して、ムッとされることがあります。

なぜなら、「知っている」という思い込みを前提にした話が、そこから進まなくなるからです。

イチから説明しなければいけない手間が発生する。

その苛立ちなのだろうと思います。

結果的には、どうでもいい話というオチに落ち着くのですが、妻が本当に求めているのは、その事柄に対して、どう思うか、どう感じるかという、感情的な部分なのだと思います。

そこだけで終わるなら、ただの井戸端会議です。

それが悪いとは思いません。

ただ、私が求めているものとは、少し違うのだと思います。

そこから何を学び、どう対応していくかが求められるはずなのに、得られるものが少ない。

だから私は、世間一般のニュースを断ち切りました。

今にして思えば、これは単に情報を減らしたかったわけではなかったのかもしれません。

情報を自分で選ぶことは、人生の主導権を取り戻す練習だったのだと思います。

何を受け取り、何を受け取らないか。

それを他人ではなく、自分で決める。

そのことに、私は少しずつ慣れていったのだと思います。

そう考えるようになってから、街の風景も少し違って見えるようになりました。

街を歩いていると、スマホを見ている人がよく目につきます。

駅でも、電車でも、カフェでも、信号待ちでも。

みんなスマホを見ています。

そこで、ふと思います。

「いったい、何を見ているのだろう」

もちろん、分かりません。

ニュースかもしれません。
SNSかもしれません。
仕事のメールかもしれません。

それぞれに、それぞれの理由があるはずです。

でも、一つだけ思うことがあります。

私たちは今、情報を探しているというより、情報に囲まれているのではないでしょうか。

昨日話題になったことが、今日はもう古い。

知らないと、「そんなことも知らないの?」と言われるような空気さえあります。

だから、また調べる。
また見る。
また新しい情報を取り込む。

そして、気がつけば一日が終わっています。

何かを知りました。
たくさんの情報を集めました。

でも、自分の人生は、何か前に進んだのだろうか。

そんなふうに思うことがあります。

第四章|今の私たちなら

人の情報で判断し、惨敗してきた

情報を自分で選ぶという話は、実は情報だけの話ではないと思っています。

私はかつて、人生の判断そのものを、他人の情報に委ねていた時期がありました。

幼少の頃から働く父の後ろ姿を見て育ち、将来は後を継ぐものだと、密かに思っていたのです。

そのために、丁稚奉公に出ましたが、そこで見た現実は、理想とはかけ離れていたのです。

自分が思い描いていた「継ぐ」という言葉の中身と、実際に見た現場の空気は、まるで別物でした。

だから、撤退しました。

次に、木箱梱包業を引き継ぎ、自分で営むことを目標にしました。

その裏には、「儲かるぞ」という甘い言葉がありました。

26歳のときでした。

ところが、実際にやってみると、儲かるどころか赤字が続き、なぜだろうと悩み苦しみました。

原因は、衰退産業に、足を踏み入れていたからです。

気づいたときには、もう遅かった。

2008年の金融危機が、最後の一押しになりました。

このように、人からもらった情報だけで判断し、惨敗した経験があります。

それでいて、今も会社員という、人の情報源の中で暮らしています。

会社が決めた方針に従い、上から降りてくる情報をもとに、日々の判断をしています。

流れを、他人に委ねているのです。

でも、時代は変わりました。

そして、定年というリミットが、近づいている現実があります。

両手を広げる範囲がキャパシティだというなら、何かを捨てなければ、容量は空きません。

そのためには、自分の軸で動く必要があります。

では、何を捨てるのか。

キャリアでしょうか。
プライドでしょうか。

それらを手放したとしても、経験だけは残ります。

これが、核であり、武器です。

さて、この武器を、どう使おうか。

正直、まだ答えは出ていません。

でも、答えが出ていないことと、動かないことは、別の話だと思っています。

老子の第9章が教えているのは、「頑張るな」ということではなく、**「満たしすぎるな」**ということなのだと思います。

だから、ときには止まる。手放す。引く。

そして、自分の両手を見るのです。

そこに今、何を持っているのか、と。

第五章|今日の問い

あなたが本当に残したいものは何か

情報も、キャリアも、人間関係も、気がつけば両手からあふれるほど抱え込んでいることがあります。

それを一つひとつ確かめる時間は、なかなか取れません。

だからこそ、ときどき立ち止まって、両手を広げてみる。

そこに何を持っているのか、確かめてみる。

そんな時間があってもいいのではないかと、私は思っています。

あなたが今、両手いっぱいに持っている情報とキャリアの中で、

本当に残したいものは、何でしょうか。

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