【#08】「役に立つ」という言葉に、足を止めた。|老子・第8章「上善若水(じょうぜんじゃくすい)」
第1章:機関車トーマスで気づいた「役に立つ」という言葉
孫と一緒に、アニメ「機関車トーマス」を見ていた。
何気なく見ていただけのはずなのに、ある言葉だけが、何度も耳に残った。
「役に立つ」
トーマスの世界では、誰もがこの言葉を口にする。
役に立つ機関車になりたい。
役に立つことが、うれしい。
役に立てなかったことが、悲しい。
子ども向けのアニメの中で、当たり前のように繰り返されるその言葉に、自分でも不思議なくらい、引っかかっていた。
そのときは、まだ、それが何なのか分からなかった。
ただ、頭の片隅に、小さく残っただけだった。
第2章:メルマガ作りで芽生えた「相手目線」
数日後、メルマガの準備をしていた。
登録特典として、「希望の座標」という、今の自分の場所から、なりたい未来への手がかりを届けるコンテンツを考えていた。
そこで、ごく自然に、こう考えた。
「どうすれば、一人でも多くの人に登録してもらえるだろう?」
けれど、考えているうちに、ふと、別の問いが浮かんだ。
「自分だったら、どんなメルマガなら、読みたいと思うだろう?」
登録者を増やす方法から、自分ならどうか、という問いへ。
視点が、少しだけ、動いた気がした。
第3章:「役に立つ」は相手が決める言葉
その問いを考えているとき、頭の中に、あの言葉が戻ってきた。
「役に立つ」
人は、動画を見るときも、本を読むときも、文章を読むときも、それが自分にとって「役に立つ」と感じるから、手を伸ばす。
そう考えたとき、あることに気づいた。
「役に立つ」という言葉は、自分が使う言葉ではなく、相手が判断する言葉なのではないか。
自分が「役に立つはずだ」と思っても、相手が「役に立つ」と感じなければ、それは役に立っていない。
そう考えたとき、これまでの自分を振り返らずにはいられなかった。
コンテンツを作るとき、自分はいつも、こう考えていた。
「自分はこう思う」
「自分はこう伝えたい」
正しいことを言っているつもりだった。
けれど、それは、自分本位だったのかもしれない。
第4章:老子だけが難しかった理由
これまで、古典を軸にしたコンテンツを、いくつも作ってきた。
孫子の兵法は、戦略であり、攻めであり、比較的、自分の体験と重ねやすかった。
孔子も、正しさや、向き合い方を説く思想で、考えていて面白かった。
どちらも、自分自身を見つめ直すきっかけになった。
けれど、老子だけは、違った。
「力を抜け」
「争うな」
「水のようであれ」
そう言われても、正直、どう自分の体験と結びつければいいのか、分からなかった。
30年、現場で働いてきた身としては、力を抜いて生き延びられるほど、甘い世界ではなかったからだ。
そんな中で、第8章「上善若水」に向き合うことになった。
第5章:上善若水と「役に立つ」の意外な接点
老子は、こう言っている。
上善は水の若し。
水は万物を利して争わず。
衆人の悪む所に処る。
水は、あらゆるものに恵みを与えながら、争わない。
そして、人が嫌がるような、低い場所に、自ら流れていく。
最初は、ただの比喩だと思っていた。
けれど、「役に立つ」という言葉と重ねたとき、少し違って見えてきた。
水は、器が変われば、形を変える。
高いところから、低いところへ、自然に流れていく。
それでいて、長い時間をかければ、岩さえも変えてしまう力を持っている。
自分の形を、相手に押しつけない。
けれど、自分自身を失っているわけでもない。
もしかしたら、「役に立つ」ということも、これに近いのかもしれない。
そう考えたとき、自分の中で、「役に立つ」という言葉の意味が、少しだけ変わった気がした。
老子が「役に立つとはこういうことだ」と教えてくれたわけではない。
ただ、この章を読んでいたら、自分がずっと使ってきた「役に立つ」という言葉の中身が、いつのまにか、書き換わっていた。
それだけのことなのかもしれない。
けれど、その書き換わり方が、自分でも、少し驚くくらいだった。
第6章:孫子「彼を知り己を知れば」との交差
とはいえ、相手の必要としている場所が、どこにあるのか。
それが分からなければ、流れようがない。
そこで、孫子の、あの言葉を思い出した。
「彼を知り、己を知れば、百戦して危うからず」
これまで、この言葉は、戦略として読んでいた。
けれど、今回は、少し違う意味で、自分に返ってきた。
人の役に立つには、まず、相手を知らなければならない。
当たり前のようで、自分はこれまで、それをどこまで考えてきただろうか。
コンテンツを作るときも、「自分が届けたい相手は誰なのか」と、何度も自問した。
けれど、具体的な人物像は、なかなか浮かんでこなかった。
第7章:「3年前の自分」を相手にしてみた
相手が見えないなら、いっそ、実在した誰かを思い出せばいい。
そう考えて、「3年前の自分」を、相手にしてみることにした。
3年前の自分は、コンテンツを作るにあたって、まず何につまずいていただろう。
思い出してみると、答えはすぐに出てきた。
「何から手をつければいいのか、分からない」
これだった。
コンテンツ作りにおいて、最初の一歩は、想像以上に高い。
その一歩さえ越えられれば、あとは横に広げていける。
けれど、多くの人が、最初のハードルの高さに、そこで止まってしまう。
自分も、そうだった。
だとすれば、自分が乗り越えてきた過程そのものが、同じ場所でつまずいている誰かの、役に立つのではないか。
そう考えて、Kindle本と、有料記事を、並行して作るようになった。
Kindle本の巻末にメルマガの案内を載せたのも、読者との接点を増やすためだった。
登録特典を何にするか、ずっと考えていた、その数日間の中に、「上善若水」が、静かに重なってきた。
##第8章: 経験は誰かとつながって初めて活きる
自分の経験には、価値がある。
そう思いたい気持ちは、正直、ある。
けれど、それだけでは、まだ足りないのかもしれない。
経験そのものに価値があるのではなく、誰かの困りごとと、その経験がつながったときに、初めて、それは役に立つものになる。
高いところから低いところへ流れる水のように、自分が持っているものを、必要としている場所へ、静かに流していく。
そこに、押しつけはいらない。
証明もいらない。
ただ、相手のいる場所に、形を合わせていくだけでいい。
そう考えると、少しだけ、肩の力が抜けた気がした。
けれど、それが本当にできているかどうかは、まだ、分からない。
第9章:なぜ大人は「水」になれないのか
そう考えながら、ふと、別のことが頭に浮かんだ。
トーマスを見ていた、孫の顔だった。
子供に対して、大人は、素直に育ってほしいと願う。
だからこそ、子供向けのアニメも、自然と、その方向に描かれるのだろう。
けれど、大人になるにつれて、その素直さは、少しずつ削られていく。
騙されないでいようとする警戒心。
人にいいように使われないようにする用心。
それは、自分を守るための、正当な防衛だ。
騙されたくない。
利用されたくない。
損をしたくない。
これ以上、人に踏み込まれたくない。
30年、現場で働いてきた中で、そういう経験を、何度もしてきた。
だからこそ、「人の役に立とう」という言葉が、若い頃のように、素直には響かなくなっている。
「役に立つ」と「いい人になる」は、本当は別のことのはずなのに、どこかで混同してしまっていたのかもしれない。
けれど、その防衛を強めていくほどに、「人の役に立つ」という感覚そのものを、忘れていく。
人間社会は、性善説では成り立っていない。
善意だけで動いていたら、簡単に利用されてしまう場所も、確かにある。
だから、警戒すること自体は、間違っていないと思う。
けれど、老子が説いているのは、その警戒を捨てろということではないのかもしれない、と思い直した。
警戒しながらも、なお、低いところへ流れていける強さ。
争わずに、それでいて、擦り減らされない在り方。
そんな強さがあるとすれば、それは、素直さを失わなかった人間の強さではなく、素直さを一度失った上で、もう一度、選び直した人間の強さなのかもしれない。
善の心を持つことは、理想としては分かる。
けれど、そこに近づくのは、正直、まだ遠い。
第10章:役に立つとは、結局何なのか
機関車トーマスから始まった、この小さな違和感は、老子にも、孫子にも、そして自分自身の30年にもつながっていた。
「自分が言いたいこと」から、「相手が必要としていること」へ。
言葉にすれば、それだけのことかもしれない。
けれど、この視点の転換は、思っていたよりも、ずっと難しい。
なぜなら、自分では、「相手のために」と思っていても、実際には「自分が言いたいことのために」動いていることが、少なくないからだ。
老子を理解したつもりは、まだ、ない。
ただ、老子を読もうとしたことで、自分の考え方のクセに、少しだけ、気づいた。
それだけで、十分なのかもしれない。
ただ、もう一つ、自分に聞いてみたいことがある。
「役に立ちたい」と思っているつもりで、本当は、「自分の経験には価値があると、誰かに認めてもらいたい」だけなのではないか。
その問いには、まだ、答えられない。
最後に、一つだけ、問いを残しておきたい。
あなたが今、誰かに届けようとしているものは、自分が伝えたいものだろうか。
それとも、相手が必要としているものだろうか。
