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【#07】信用は急がない人に集まる|老子・第7章

哲学人生

【#07】信用は急がない人に集まる|老子・第7章

評価されない違和感

最近、

こんなことを感じたことはありませんか。

真面目にやっているのに、 評価がついてこない。

遅れている人をかばい、 最後の帳尻を、 自分が合わせる。

それなのに、 それは自分で選んだことではなく、 指示された役目でしかない。

自分の意見をうまく言えない人ほど、 負担を背負わされる。

一方で、 SNSでは目立つ人がいる。

眩しく見える。

フォロワーの数字が、 そのまま価値のように見える瞬間がある。

でも、 心のどこかで思ってしまう。

「本当に、あれが幸せなんだろうか。」

人より先に行こうとしていたはずなのに、 なぜか満たされない瞬間が来る。

周りは「成功だ」と言う。

でも、 自分の内側は、 静かなままだったりする。

そもそも、 何をもって成功と呼ぶのか。

そこがはっきりしないまま、 みんな走り続けている。

三十年以上、 物流の現場に立ってきて、 ずっと思っていたことがある。

急いでいる荷物ほど、 乱暴に扱われる。

急いでいる人ほど、 周りが見えなくなる。

現場でも、 人生でも、 同じことが起きているのかもしれない。

老子第7章の教え

ここで、 老子の言葉を、 一つ置いておきます。

老子第七章に、 こんな言葉がある。

「後其身而身先(其の身を後にして身先んず)」

自分を後回しにする者が、 結局は先に立つ。

自分を勘定に入れない者が、 かえって自分を保つ。

天地が長く続くのは、 天地が自分のために動いていないからだ。

そう老子は語る。

前に出ようとする力ではなく、 前に出ようとしない在り方。

それが、 結果として一番遠くまで運ばれていく。

そんな逆説を、 老子は静かに置いていく。

急いで手を伸ばすほど、 遠ざかっていくものがある。

そのことを、 二千年以上前の言葉が、 今の私に語りかけてくる。

老子は、 争うなとは言っていない。

前に出るなとも言っていない。

ただ、 「自分を勘定に入れない」 という在り方の話をしている。

損得を計算する前に、 すでに動いている在り方。

それが、 結果的に一番遠くへ届くのだと。

独立と信用の体験

ここから少し、 私自身の話をします。

私が独立開業したのは、 二十六歳のときだった。

今の自分から見れば、 まだまだ子どもだったと思う。

先代から受け継いだ仕事。

同じ場所で、 同じ看板で、 ただ事業を続けただけだった。

けれど、 周りの目は違った。

店の前を素通りする人。

公園の遠くから、 こちらを見ている人。

人は、 人をよく見ている。

当時はそれを、 値踏みされているようで、 少し息苦しく感じていた。

若さゆえに、 その視線の意味を、 正しく読み取れなかったのだと思う。

正直に言えば、 不安のほうが大きかった。

先代の看板を、 自分の代で潰してしまうのではないか。

夜、 一人で帳簿をつけながら、 そんなことばかり考えていた時期もある。

誰かに弱音を吐くことも、 うまくできなかった。

それも、 今思えば、 若さだったのだと思う。

でも今なら分かることがある。

もし今の自分が、 二十六歳の自分を見たとしたら。

きっと同じように、 遠くから見ていたと思う。

それは、 疑っていたのではない。

心配していたのだ。

言葉にせずに。

近所に、 小さな喫茶店があった。

そこのママが、 ある日ぽつりと言った。

「お兄ちゃんのところは、 いつでも誰かが来ているね。」

たしかに、 友達がよく顔を出してくれた。

仕事の合間に、 コーヒーを一杯飲みに来るだけの日もあれば、

仕事が忙しい時期には、 何人もの友達が、 ただ来てくれたこともある。

あの頃は、 それが当たり前だと思っていた。

でも今振り返ると、 あれは当たり前ではなかった。

誰かが誰かを、 そっと支えていた光景だったのだ。

喫茶店のママは、 私に直接、 「頑張っているね」 とは言わなかった。

ただ、 窓の外を見ながら、 「今日も誰か来てたね」 と、 それだけを繰り返し言っていた。

その距離感が、 今になって、 ありがたかったのだと分かる。

励まされるよりも、 見てもらえている方が、 支えになることがある。

昔、 鉄工所で丁稚奉公をしていた頃の会長が、 ある日、 私の仕事ぶりを見にきたこともあった。

わざわざ足を運んでまで、 様子を見に来る。

作業着姿の私を見て、 会長は多くを語らなかった。

道具の並べ方や、 荷物の積み方を、 ただじっと眺めていただけだった。

業界はまるで違う。

それでも会長は、 独立という目的を果たした私を見て、 父にこう言ったそうだ。

「先見の眼がある。」

あの頃は、 気づいていなかった。

見られていたのは、 仕事の出来不出来ではなかった。

在り方そのものだったのだ。

頭では分かっていた。

「石の上にも三年。」

そう言い聞かせながら、 毎日を続けた。

そして三年が経とうとした頃、 地域の空気が変わった。

素通りしていた人が、 声をかけてくれるようになった。

信用というものは、 こうやってできていくのか。

そう肌で理解した瞬間だった。

一方で、 私はずっと一匹狼だった。

誰かを押しのけて前に出るという感覚は、 そもそも持ったことがない。

出世に興味があったわけでもない。

ただ、 この世知辛い世の中を、 どうやって生き抜くか。

それだけを考えてきた。

評価は、 他人がつけるものだから。

追いかけていないものを、 失うこともなかった。

これは、 強がりではない。

追いかけなかったからこそ、 振り回されずに済んだという、 ただの事実だ。

これに似た経験が、 もう一つある。

今の仕事は、 運送業の集配業務だ。

そこには、 「無事故無違反継続日数」 というランキング表がある。

今、 私はその上位に、 入ってきている。

これは、 競争して勝ち取ったものではない。

むしろ逆だ。

自然と、 周りが落ちていっただけなのだ。

違反をすれば、 順位が下がる。

ただ、それだけのシステムだ。

毎日、 無事故無違反を続けてきた。

その結果が、 今の順位に表れている。

ちなみに、 一位の人は桁が違う。

その人の人柄や、 普段の言動を見ていると、 結果が出ている理由が、 よく分かる。

今振り返ると、 一番充実していたのは、 自営業をしていた頃だ。

自分で稼ぎ、 自分で生活し、 波に乗る時間があった。

高校二年の夏、 友人に誘われて始めた波乗り。

それが、 自分の人生をいちばん動かした出会いだった。

目的はそこにあった。

前に出ることではなく、 波を待つ、 その静かな時間だった。

そしてやがて、 その仕事を廃業することになる。

「自分がやらなければ」 と思っていたものを、 手放した瞬間だった。

気づいた本当の信用

ここまで話してきて、 気づいたことがあります。

あぁ、 そういうことだったのか。

木箱の店先で、 遠くから見られていたあの三年間。

あれは、 自分を主張しなかった三年間だった。

そして、 疑われていた三年間ではなく、 見守られていた三年間だった。

喫茶店のママの一言も、 鉄工所の会長の一言も、 私が前に出て勝ち取ったものではない。

ただ、 自分のやり方を変えずに続けていただけだ。

それを、 誰かが勝手に見つけて、 勝手に言葉にしてくれた。

友達がふらりと立ち寄る店。

忙しい時に、 声をかけずとも手伝いに来てくれる人たち。

それは、 私が作ったものではない。

私の在り方が、 知らないうちに作らせていたものだった。

もし当時、 「見に来てほしい」 「手伝いに来てほしい」 と誰かに頼んでいたら。

きっと、 今のようには残らなかっただろう。

頼まずに続けていたことだけが、 時間を超えて残っている。

そう考えると、 少し不思議な気持ちになる。

競争というものを、 私はずっと誤解していた。

競争は、 するものではない。

させられているものだ。

その土俵に自分から乗った瞬間、 優劣というシステムの中に組み込まれる。

本当に大切なのは、 競争に勝つことではない。

選ばれることだ。

そこに初めて、 意味が生まれる。

私はそれを、 狙ってやったわけではない。

ただ、 前に出る才覚がなかっただけかもしれない。

でも今なら分かる。

前に出なかったからこそ、 土地に馴染む三年を、 そのまま受け入れられた。

もし焦って前に出ていたら、 きっと三年は続かなかった。

信用というものは、 急いで手に入れるものではなく、 待つことでしか手に入らないものだったのかもしれない。

現代に活かす老子の知恵

この話を、 今の時代に置き換えてみます。

若い人たちと話していて、 気づくことがある。

判断軸がないことが多い。

これは、 彼らが悪いという話ではない。

軸を育てる機会が、 単純に少なかったのだと思う。

経験がないから、 考えられない。

考えられないから、 上司の言うことがすべて正しく見えてしまう。

たとえそれが間違っていても、 言い返せない。

軸がないからだ。

この軸は、 未成年の頃の「遊び」で育つのではないかと思う。

ルールの中で攻略する遊びに慣れた人と、 泥だらけになって外を駆け回ってきた人とでは、 軸の育ち方が違う。

これは、 AIの時代にも重なる話だ。

正解をすぐに教えてくれる時代だからこそ、 自分の軸を持たないまま、 前に出ようとする人が増えている気がする。

発信も、 SNSも、 同じだ。

目立つことと、 満たされることは、 本当は別のものだ。

満たされて、 初めて満足が生まれる。

そのためには、 まず与えること。

幸せの「幸」は、 時の巡り合わせのようなものだ。

でも、 そこに「福」がなければ、 幸せは成り立たない。

その「福」には、 お金も含まれる。

信用というものも、 似ている気がする。

すぐに数字にはならない。

でも、 急がずに積み重ねたものだけが、 誰かの記憶に残っていく。

木箱の店先で見られていたのも、 今、 文章や声を届けているのも、 根っこは同じかもしれない。

見えないところで、 誰かが見ていてくれる。

それを信じられるかどうかが、 続けられるかどうかを分けるのだと思う。

今、 文章を書いたり、 声を届けたりする活動をしていて、 同じことをふと思う。

数字はすぐに欲しくなる。

再生回数も、 フォロワーも、 今日明日で増えてほしいと思ってしまう。

でも、 あの木箱の店先での三年間を思い出す。

急がずに続けていたら、 いつのまにか、 誰かが見つけてくれていた。

発信も、 きっと同じではないか。

前に出ることを否定するつもりはない。

ただ、 前に出ることだけが、 道ではないというだけだ。

本日の問い

最後に、 一つだけ、 問いを残します。

急いで手に入れたものは、 急いで失われていくことが多い。

反対に、 時間をかけて積み重ねたものは、 簡単には崩れない。

そのことを、 木箱の店先で、 波の上で、 教えられてきた気がする。

もし今、 あなたが急いで手に入れようとしているものがあるとしたら。

それは、 待つことでしか、 本当は手に入らないものではないでしょうか。

今日は、 その問いだけを残します。

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